こんにちは。
那由多です。
今回は映画人の紹介の回です。
以前、黒澤明監督をご紹介しましたが三船敏郎さんは黒澤明監督の作品に15本も出演しています。
黒澤明監督は生涯で30本の映画を作りました。
その半分の作品に出演した三船敏郎さんは、黒澤明監督の作品によって世界でも有名な俳優さんになりました。
そんな三船敏郎さんは元々俳優志望ではなかったようです。
第二次世界大戦中に三船敏郎さんは写真を撮って、それをつなぎ合わせて敵地の地図を作る兵士として従軍します。
戦後にはこの経験を活かして東宝ニューフェイスのカメラマンになろうとします。
しかし撮影部には空きがなく、仕方なく俳優の試験を受けて俳優として所属し、撮影部に空きができたら潜り込むつもりでいたようです。
ここから俳優・三船敏郎が始まり、世界にはばたくわけですね。
日本よりも海外での評価が高かった三船敏郎
三船敏郎さんの逸話を調べると俳優仲間からの高い評価に触れることができます。
しかし海外からの評価が非常に高いことも感じ取れると思います。
これは黒澤明監督の作品にたくさん出演したことと、当時の機器が原因かもしれません。
というのも、黒澤明監督はここぞという時にはいきなり撮影を始めるようです。
その時は音声さんの準備がまだできていない場合もあったようです。
さらに当時の音響機器は質が低く、よくセリフが聞こえないこともあります。
海外ではちゃんと字幕があったので内容がわかりますが、日本人向けには字幕はなく、そして内容が聞き取れなくてわからないから海外の評価が高かったという説です。
もったいなさすぎですね。
ちなみにスティーブン・スピルバーグ監督やジョージ・ルーカス監督、俳優のアラン・ドロンさん、革命家のチェ・ゲバラさんなど三船敏郎さんを高く評価している人は大勢います。
三船敏郎さんが1997年12月24日に亡くなった際はフランスやイタリアのニュース番組でも取り上げられ、アメリカのタイム誌でも大きく取り上げられました。
日本の俳優が亡くなった際に海外の報道機関に大きく取り上げられたのは、三船敏郎さんが初めてだったようです。
ちなみに1957年の黒澤明監督作品の「蜘蛛巣城」では三船敏郎さんに向かってとんでもない量の矢を打ち込んでいます。
三船敏郎さんには当たらなかったものの、本当に死ぬかと思ったようで黒澤明監督に本気で怒ったようです。
ここで亡くなっていたら「世界のミフネ」にはなっていなかったのでよかったですね。
ということで三船敏郎さんが出演した作品も観てみてください。