こんにちは。
那由多です。
前回、北野武さん監督作品『座頭市』について書いた時に映画そのもののレビューもいいですが、映画に携わった人について書くのもおもしろいかもと思いました。
今回はその第一弾として『黒澤明(くろさわあきら)』監督について書いていきたいと思います。
映画人 黒澤明監督の生い立ち
黒澤明監督については映画をあまり知らない方でも名前を聞いたことはあるという人も多いと思います。
黒澤明監督は1910年に東京都で8人兄弟の末っ子として生まれ、1998年に脳卒中により死去しています。
戦時中に監督デビューをし、昭和の時代に活躍しました。
現在でも名前を知っている人がいる理由としては「羅生門」という作品でヴェネツィア国際映画祭の金獅子賞を日本人として初めて受賞したからだと思います。
なのでヴェネツィア国際映画祭の話題がメディアで取り上げられる時には、今でも伝説的な監督として名前があげられて今でも認知されているというわけですね。
そんな黒澤明監督はなんと映画監督志望ではなかったようです。
18歳の時に二科展に入選し画家を志していました。
映画と関わるのはすぐ上のお兄さんの「須田貞明(すだていめい)」さんの影響が強かったようです。
昔はサイレント映画が主流だったので「弁士」という映画の映像に合わせて解説する仕事がありました。
この須田貞明さんはかなり売れっ子で、このお兄さんの影響で映画に興味を持ったようです。
26歳で画家では食っていけないことから映画監督の試験を受けて映画監督になりました。
黒澤明監督が映画監督として今でも語り継がれるのは上記のヴェネツィア国際映画祭の金獅子賞だけではなく映画に対するこだわりもあります。
例えば、映像に映り込む雲の形が気に入らないと一日中待機させ、結局満足のいく雲の形にならなかったので撮影を中止しました。
また1948年の作品の「酔いどれ天使」は夏の設定の作品ですが、「夏の作品を夏に撮ると暑さを強調することを忘れる」ということで冬に撮影しています。
反対に、1954年の「生きる」という作品も冬の設定ですが、「冬の作品を冬に撮影すると寒さを強調することを忘れる」という理由で夏に撮影しています。
俳優さんたちは苦労したでしょうね。
そして数々の賞を獲得し、映画監督で初の国民栄誉賞を受賞し、1998年に亡くなっています。
黒澤明監督は周りに助けてもらわなければ存在しない監督だった?
黒澤明監督の印象は語り継がれる伝説だけを聞くと、天才で映画を作ることへのこだわりが強く、妥協を許さない人というイメージができると思います。
そういったイメージなので周りに迎合することや助けをもらわず己の才能1つで勝負してきたように感じるかもしれません。
しかし実際は監督になる時から周りの人の力を借りています。
上記の通り映画監督になる時に黒澤明監督は映画監督の試験を受けています。
この試験は戦時中には行なわれていたものだそうです。
当時は映画に対して政府からの検閲が入りました。
試験では作品を検察官や立会人の映画監督に観せて、映画監督として合格かの成否を出します。
検察官は黒澤明監督のデビュー作の『姿三四郎』について「米英的だ」と難色を示しました。
しかし立会人の『小津安二郎(おずやすじろう)』監督が「姿三四郎は100点満点として120点!」と言いました。
小津安二郎さんは当時から巨匠として有名な監督だったので、検察官もそれ以上文句を言えず晴れて黒澤明監督はデビューできたといいます。
そんな経緯で誕生した黒澤映画をぜひ観てみてください。